五
 和漢聯句という文芸の黄金時代は,後陽成天皇の在位時代,とくに桃山時代だったのではないか。和漢聯句の隆盛の原因は,従来,普通の連歌がマンネリズムに陥り和漢聯句のような目先の変わった連歌に関心が向かったのだ,というような捉え方がされてきた。それなりに説得力はある。けれども,もっと別の理解がありうると思う。一つには,1500年代半ばに,聯句という文芸が禅林において質量 ともに充実を見たことがある。策彦周良がま だ若かった紹巴を相手に,両吟の和漢千句を残していたことも重要だろう。それから,後陽成天皇個人の資質と,天皇をとりまく公家や僧侶の知識教養が高まったことを挙げるべきだと思う。そしてその背景として,豊臣政権の,禁裏の文化に対する優遇政策があったことを忘れてはならない。
 そのうえでさらに,桃山時代に和漢聯句という文芸に光が当たることになった直接の要因は,「外交」ではなかったかと考えている。具体的には、桃山時代の間に天正18年(1590)と文禄5年(1596)の2回来日した朝鮮通信史である。結果から見ると,文禄の役と慶長の役の,二度の朝鮮半島侵攻に向かって情勢は動いていったのだが,通信史が来ると五山の禅僧が応対し,禅僧のほかにも詩文の教養のある人々が面会を求め,漢詩を披露しあって文化的交流を試みた。大陸由来の漢聯句と日本由来の連歌とが一つの巻の中に混じり合う和漢聯句は,日本と大陸とのつながり・連なりを求める時代の気分にうまく乗る,いわば,桃山時代の夢を象徴するような文芸だっ たと考えられないだろうか。もっとも,夢は夢でも,秀吉にとっては侵略征服というきな
臭いだけの夢だったかも知れない。けれども,後陽成天皇を頂点とする和漢聯句の作者層が見ていた夢は,文学を通じた国家交流という,いかにも貴族らしい夢だったように思う。
 その後,江戸時代に入ってからも朝鮮通信史は繰りかえし来日した。江戸時代初期には聯句や和漢聯句の関連の出版物がいろいろあるが,それらの出版の意義についても,朝鮮通信史と連動させて考える必要があると思われる。

 
1) こうした和漢連句史については,拙稿「聯句と和漢聯句」(『国語国文』1988・9)で考察している。
2) 明治書院,1964。
3) 京都大学附属図書館平松家本,時慶自筆。
大谷俊太氏「『夢後記』―西洞院時慶卿庭訓―」(『南山国文論集』第13号)に紹介と翻刻がある。
4) こうした韻書の一本を,拙稿「漢和聯句のための韻書『聯句用字解』」(『俳文学研究』第5号,1986・3)で取り上げた。
5) 秀賢の句の「竹」は,押韻字からすれば「」ではないかと思われる。
6) 第一発句の中七は、京都大学谷村文庫本によれば「出そよそらや」。
7) 『連歌研究の展開』(勉誠社,1985)所収。 なお,田中氏は(へ)の和漢千句を正親町天皇による御会と見ているが,本稿で記録類を通して見た通り後陽成天皇による御会とすべきであろう。
8) 大阪大学『語文』第73輯,2004・12。

       ―ふかさわ しんじ―
   国内研修:和光大学表現学部教授
   指 導 者:東京大学大学院 長島弘明教授
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