りあわせ,食事の提供などの世話を受けていたようだ。ただし秀賢は宮中に泊まり込みである。2日めは四百韻が難渋して,鶏鳴のころにやっと終わった。3日めは,開始時間を少し遅らせて日の出前ぐらいから開始,おそ らくは三百韻と追加五十韻を,亥刻(午後10時ごろ)になってようやく終わっている。

 この和漢千句の場合には,3日間が過ぎてそれで解散,ではなかった。翌日,
  今日指合以下御再見これ有り
ということがあって,僧衆はまだ禁中に留め置かれ,公家衆も早朝から参内したのである。興昧深いことに,遅刻者数名を待つ短時間に,「第上句(第唱句)御製」で僧衆および秀賢による「六言聯句」が行われている。秀賢は明経博士家たる清原家の出であり,自身も2年前に明経博士となっていた。儒家として和漢の漢方をつとめる秀賢が,禅
林の僧衆に混じっての聯句であった。また,後陽成天皇の,六言聯句という変則的形式に対する強い関心が顕われた出来事と思う。
 それからその日は指合(差し合い)の箇所が修正されて退出となったが,さらに翌7日には,
  御前に召され,懐帋共,直に句,書き加え
  畢んぬ
という。つまり御前で指示を受けて,和漢千句の懐紙に重ねての添削の筆を加えたというのである。前2度の和漢千句の時よりも,天皇のこだわりは高じているようだ。飽くなき情熱と言ってもよい。また,そのことが,興行の「難渋」(9月3日)につながり,終了時刻も毎夜深更に及ぶ事態を招いたものと想像される。
 ちなみに,この和漢千句の和句の連衆の主力メンバーである中院入道前侍従中納言(通勝・素然)は,天正19年度と文禄2年度の和漢千句の際には勅勘を蒙って流寓の身の上だった。しかし彼は,天正19年5月から翌年にかけて泉州堺で雄長老英甫永雄(天正19年度・文禄2年度両方に出座した)と会し両吟和漢千句を興行,おそらくは禁裏御会に復する日を期して,和漢聯句の習得に怠りなかったと思われる。禁裏の千句は臣下にとってそれほどに晴れがましい嘉儀であった。ながらえて,このたび慶長9年度の和漢千句に加わり得たことに,中院通勝の感慨いかばかりであったことか。
 なお,寛永13年(1636)5月13日〜15日の和漢千句(ヌ)は後水尾院の仙洞御会である。これについては田中隆裕氏「後水尾院の連歌活動について―江戸初期宮廷連歌の動向―」(注7)に言及がある。また,最近では,山田理恵氏「『後水尾院和漢千句』における固有名詞の特徴について―和漢聯句と和漢俳諧との比較―」(注8)がある。
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