herはEdwardの許婚であるMay Fieldingの母親で,上の文は強欲老人のTackletonからMayを取り戻し,Edwardとの結婚に成功したお祝いに,皆で宴をやろうとしてその母親を探しに大挙して出掛けて行った時のことである。Fielding夫人がその話を初めて聞いて言った言葉が,上のthat ever she should have lived to see the day! (ああ,人間に生まれてこんな嫌な日に出会おうとは) である。形の上では間接話法になっているが,わずかに最後のパンクチュエイション,dayの後の!が,自由間接話法の余地を残している。これは最大の注意を払って読むべき箇所であり,これに よって捜索遠征隊が何と言って説明しようと してもとりあわず,ただ自分の言いたいことを何度もまくしたてているFielding夫人の姿が,読者の眼前に彷彿としてくるのである。 さらに母はこの後,自分について次のように言う:
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これは次のようになる。...and said,‘You wouldn't trouble yourselves about me,― for what am I? oh,dear! a nobody! ― but would forget that such a being lived, and would take your course in life without me.'正に自由間接話法 である。Mayの母の滑稽な姿が躍如としてい る。次の例も同様である。
物語の初めの方で,夫が変な荷物を荷車に背負い込んで帰って来たので,Dotが「あの人は出て行くんでしょう」と尋ねると,夫はNot at allと今にも言いそうになるが,この時耳の 遠いのを装っていたEdwardが引き取り手が来るまで留置にしてくれと言うのである。このNot at allは自由間接話法で,夫のJohnの 言葉として影で響く。そしてその響きが読者に伝わってくるという効果がある。 最後にみられるダンスの情景は時制は現在 形で描かれる。これも「語り」ということで 説明することができる。つまり歴史的現在で ある。そしていよいよ最後では「非現実」と なり,今までそこに居て楽しく踊っていた登 場人物達がみな姿を消し,ただ作者と一匹の Cricketと壊れた子供の玩具が床の上に横た わっているだけということ,との関連で見る |
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