院時慶の『時慶卿記』と,相国寺僧の有節瑞保の書いた『鹿苑日録』とを使い,詳細な検討を加えたのである。しかし,いまならば, 『鹿苑日録』の活字翻刻と索引が整備され,『時慶卿記』も注のついた活字翻刻の刊行が始まって,格段に日記資料が使いやすくなってきている。そうした活字資料に依って桃山時代の和漢千句の実際を紹介しながら,小高氏が触れなかったことにも言及する。まとまりごとの冒頭に原文を掲げ,とくに取り上げる簡所に下線を引き,説明においてはそこを読み下して引用する。また,注意すべき語句には二重の下線を引く。![]() 天正19年(1591年)の4月12日,時慶は陽明公近衛信輔(のちの信尹)と日野輝資の訪問を受けた。 禁中において千句のあらましこれ在り, その談合どもこれ在る由に候,それがし 執筆仰せいださるべき旨に候 つまり,禁中で千句を開催することになったのである。これが前述のヘの和漢千句にあたる。灯ち合わせがあり,時慶が執筆(記録係兼ルールの点検 |
係)を仰せつかることになった。時慶にとっては才能を認められての晴れがましい役目である。そこで12日から14日にかけて参考書を見ている。『城西聯句』は策彦周良と江心承董の聯句の集。禅僧の聯句になれておこうというのだろう。『韻字』は,漢和聯句の際に和句で韻を踏める字を集めた字書のことだと思われる。それに『新式』すなわち『連歌新式』を見ている。ルールを一所懸命に頭に入れている様子である。当時であればいずれも写本だろう。14日には, 禁裏より,和漢一順,長橋殿うけたまわ りにて下され候 とある。つまり,このときは,和漢千句そのものとは別に,前もって禁中で和漢聯句を一巻作ることになったのである。その予行演習的な和漢聯句を,「長橋」という人物の取り回しによって,一順すなわち参加者がひとめぐり回覧板のようにして付けていっている。時慶は初めてのことゆえに「陽明」近衛信輔や「聖門」聖護院門跡道澄に相談して了承を得てから, 記し付け,長橋へ持参し候 と提出した。すると, 十六日の御会の執筆,仕るべき旨仰せ出 だされ候 と,まずその予行演習の和漢聯句から執筆を勤めるようにと命じられたのである。時慶はどうやら自習だけでは心もとなく思ったようで,15日になると, 昌叱へ執筆のしつけ,問い習う こともしている。職業連歌師である里村昌叱に,執筆の作法のレクチャーを受けたのである。このあたり,公家が頼りにすることで連歌師が力を得て行くことの具体的な一例で,当時の連歌師の役割をよく示していると思 う。 |
|
- 3 -
|
||