なお,『鹿苑日録』の同年4月15日によれば,有節のもとにも「禁中より和漢一巡来る」 ということがあり,有節は同時に,その和漢聯句の「追加の発句」を陽明や聖護院に提出している。![]() 時慶は, 行水,衣冠ニテ禁中倭漢,御執筆に参り 候,初めて召し加えらるる儀なり。 と,身を清め正装して,初めての御会に臨んだ。その禁中和漢聯句のメンバーは後陽成天皇を筆頭に18人。この18人で和漢千句を行う予定なので,この日の会は, 内々の御試し也という認識を持っての御会である。巳上刻(午前10時ぐらい)から初めて「午刻」 |
(正午)には終わったようだ。禅僧達は禁裏の所蔵書を見せられて,その後酒も出ると, 僧衆誹諧これ在り という次第になった。狂歌で名高い英甫永雄のような僧が加わっているだけに,どんな誹諧だったのか興味深い所である。 同じ日の同じ行事を『鹿苑日録』は僧のがわから描いている。着座の席次を図に書き取っているのがとても参考になる。金屏の向こう側に天皇はいて,上壇に四名,そのほかの人々は下座に並んでいる。文台を前にして執筆がおり,そこに西洞院とあって時慶がいる。南寄りの下座に禅僧が居並んでいるが,南か北かという着席位置は和句衆と漢句衆とで分けているものではない。このときの和漢千句懐紙によれば,北の方に座っている人々からも漢句が出てきている。『鹿苑日録』は 「和漢始むる也」とだけあって開始時刻は記さないが未刻(午後2時ごろ)には終わったとあり,『時慶卿記』とずれている。また,書籍を見たことは書かれてるが,残念ながら「僧衆誹諧」については何も書かれていない。 ![]() |
|
- 4 -
|
||