期間中連衆がどのようなものを飲み食いしていたかということ(ちなみに「雲門」とは餅米を白小豆の餡でくるんだ菓子)や,西洞院家に禅昌院(有和寿)が,日野家に有節と承兌西咲が泊まったこと,それに,懐紙を時慶と四辻季満が交替で書いたことがわかる。進行状況を追いかけてみよう。事前に11巻ぶんの一巡が用意されており,どの巻も当日には19句めからスタートすることになっていたはずである。21日,有節によれば丑刻(午前2時ごろ)に出仕して,灯を前にして和漢千句を始めた。未刻(午後2時ごろ)には三百句が出来上がり,みな罷り出て御番所で酒など飲み食いするのだが,
  主聖より厳命有り,日はいまだ夕陽の際
  なり,いま百句つかまつるべし云々。
と申し渡され,夜更けまでかかってもう一巻作る次第となった。翌22日は300句が作られた。時慶は初日より早く,有節は遅く出仕している。この日は初夜過ぎに終わった。最終日23日,追加の巻を合わせて350句を作っている。めでたい雰囲気の内に天皇は常の御所に帰り,宴会になった。有節は酔っぱらって相国寺に帰り,「横眠倒臥のみ」つまりたちどころに眠ってしまったと書いている。
 時慶は翌々年,子息時康(のち時直)への庭訓の書『夢後記』(注3)において,この和漢千句で執筆を勤めたことを次のように書いている。

 さて,千句終了から5日後,4月28日の『鹿苑日録」に,面白いことが書かれている。

 存節はその日,細川幽斎を尋ねた。発句と脇の応酬があり,話は禁中の千句の事に及ん だ。
  紹巴いわく,禅昌院の発句は夏の月なり。第三
  の入韻は「霖晴れて月紗に入る」,発句の月,
  第三の入韻,月。甚だ以て疾とすべし。先例こ
  れ無し。
細川幽斎の所に連歌師の里村紹巴が来合わせていた。そして禁裏千句のことについて批評 を始めたのである。
 国会図書館蔵『連歌合集』の,この和漢千句の記録では,第三漢和聯句が,
 (第唱句) 天夏月秋色 有和 (禅昌院)
 (入韻句) 夕ぐれすゞし松風の声 左人臣
となっており,第十和漢聯句が,
 (発句) 風なきも木の下や先夕すゞみ
                        新大納言
 (入韻句)霖晴紗入 有和
となっている。したがって,右の『鹿苑日録』の記事は,有節が記億ちがいして,「第十」と あるべきところを「第三」と書いたのではないかと思われる。紹巴の発言は,「禅昌院の有和が詠んだ発句は夏の月の句だった。ところが,別の巻,第三の(実際には第十和漢聯句の)入韻句に,同じ作者によって月が詠みこまれている。これは欠点とすべきである。こ んな先例はない」ということである。発句
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