伴奏で,ヨーロッパ民謡・民舞が教えられてきた。まるで自国民を相手に,外国の植民地主義を代行しているようで,笑止の極みである。
 それらしい徳目ばかり道徳ではない。それが「道」の徳であるなら,あらゆる活動のなかに埋め込まれていて,人と自然のお互い様の関わりを導くものである。だから,明治以降の公教育がわが国の道徳を破壊してきた跡は,いわゆる道徳教材以外のところにも多く認められるが,それだけに,様ざまな方面から手を打ってゆけるとも言えるだろう。

結び:道徳教育の間題
 かつて明治期には政府によって修験道の禁止令が出され,戦後は一切の宗教と教育を切 り離す建て前になっているが,広い意味での宗教にこそ土着の民俗心理は含まれている。だから,広い意味での宗教を排除した形では,道徳の教育は不可能である。
 敗戦後は,科学的ないし合理的客観性の思想が強調される傾向にあったが,これが行きすぎるといわゆる「科学」以外の思考法を認めない「科学主義」となる。とくに,「科学的な証拠がない」ことは存在しない,とするような合理性の過度の強調は,それ自体が一つの「迷信」に他ならないのだが,科学史から見れば,世俗世界の合理性とその内部での禁欲・勤勉を説くプロテスタンティズムに繋がっている。科学的合理主義は,必ずしも宗教的に中立ではないのである。ただし,近代科学がユダヤ=キリスト教の影響下で成立したのは確かだが,可能性はそれのみに尽くされるわけではない。今後の発展においては,わが国の土着的なそれを含む別系統の宗教性が寄与できる見込みの大きいことは,付け加えておかなければな
らない。
 例えば,山形県の出羽三山の信仰の特色の一つは,性・色事と,日本に土着する祀りの思想との,深い結びつきを示す点にある。これが湯殿山で,とくに顕わになつている。わが国の山の神は,一般に女である。湯殿山神社に社殿は無く,御神体は,たおやかな女神の体をなす,なだらかな山並みの谷あいに在り,鉄分と硫黄と塩分を多く含む温泉の湯の花が固まってできた,赤い岩である。これが女神の秘所に当たることは一見して明らかで,それゆえ,そこで見たこと,したことを語ってはならないとされている。

 語られぬ 湯殿にぬらす 快かな [芭蕉]

 裸足で赤い岩に上り,湧き出る湯に口を付けて飲むのが参拝の作法とされている。(「湯殿」なので,かつては裸になったのかも知れない。)粘り気さえ感ずる,匂いの強い濃い湯は,鉄分のため渋く,塩からく,女神の粘液とも月経血ともなっている。山の神が女なのは,火山がときどき赤い液体を噴き出して爆発することに繋がるが,温泉はこれを優しい形で体験できる場なのである。この湯はまた,女神の乳でもあると感じられた。(乳は血液から作られる。)芭蕉の句の「濡らす袂」には,この女神との秘め事が艶やかに込められている。
 わが国の祭りが,このような色事絡みの事例に事欠かないのは,この他に,諏訪の御柱祭を挙げるだけでも充分であろう。大和朝廷の正史である記紀神話さえ,男女の神の色事から国の産まれる様や,アメノウズメの裸踊りが世の暗闇を救う様を描いている。色事は,異なる者の出会う「お互い様」のひとつの極みである。わが国の土着思想は,そのように考えてきた。江戸時代まではそれ
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