語源とし,異なる者の出会う様である。出会いの場,すなわち「あいだ」にこそ力と働きが生ずる。力の強い者を取りあえず祀ると いう構えも,この「お互い」の場をよりよく形成する努力の一環と理解できる。このような人間性のありのままから,すなわち「自ずからなるもの」としての自然から離れることの少ない仕掛けを内容に,道徳の徳目を立てる。そのような建て前なら,理想を基準とした差別から来る過度の緊張は無く,本音と建て前の乖離や敵対が避けられる。明治以降は,唯一の正義と権威を主張する執拗な圧力が場の形成を歪ませてきたし,その教えは内容的にも「お互い様」を否定するものだった。
 つぎに,こうした状況での道徳教育の実践には,衰えてしまった基底部分の補強のため,言葉よりもむしろ体を用いた仕方で「お互い様」と「お蔭様」の感覚を取り戻す必要が ある。これが教育の形式の面である。理性主義的な高い理想を教える場合ほどではないにせよ,教室での講義や文章によるだけでは,これらの感覚は身につかないだろう。と言うのは,そのような教え方自身が,教室での言葉や論理の特権性を主張しているので,「お互い様」に外れるからである。基底部分の本音を構成する民俗心理の力が衰えているとき,建て前だけを教えたのでは,結果として,その場しのぎの言葉を並べよとの教育になる。体のなかに眠っている無意識の民俗心理を目覚めさせることこそが重要なので ある。
 道徳教育における言葉の重要性を否定するのではない。論理的な考察や,また巧みに工夫された標語なども,道徳の指針として役立つのは間違いない。明治以後の徳目の多くが,西欧の概念の翻訳のために新しく作られた,または転用された漢語で表現されてきたことは,言葉の上滑り
に拍車をかけている。「お蔭様」や「お互い様」のような「やまとことば」で言われてこそ心に響く。しかし,言葉の万能性は否定しなければならない 。明晰な言葉に沿った理解さえあれば,道徳の総てを導けるわけではない。それは「世俗的な欲望から離れた純粋な知性のいとなみ」こそ最高だという理性主義,精神主義か ら来る誤解である。
 体を使うと言っても,使い方がまた問題となる。例えば,オリンピック種目に代表されるような「スポーツ」では,体は精神の支配を受け,外から設定された目標の達成に使役 される。ラジオ体操は,体感を無視し,体を機械的に曲げ伸ばしする訓練であり,軍隊の発達とともに,規格品の大量生産にむいた体の使い方の訓練として普及が計られた。これらでは,体は制御と支配の対象でしかない。
 これに対し,かつてわが国で発達した柔道,剣道,弓道などの「道」では,勝負は時の運であって,それに伴う境地こそが問われた。書道も字を上手に書く技術ではなく,墨を磨ることから始まる一種の瞑想であって,字はその境地の表現であった。修験道の登山は,高い山に登るのが目的ではなく,山で何に出会うかが問題であった。明治初期までのわが国では,これらの「修業」は普通の人にとってもあたり前のことであり,成人式の儀礼としても用いられていたのである。(オウム真理教が「修業しませんか」と若者を誘っ て教勢を伸ばしたのは,この忘れられた,しかし消えてはいない欲求に訴えたものであろう。)
 学校教育の正課に,こうした「道」の伝統がほとんど入れられず,わずかにあったものもスポーツ化,技術化し,さらには排除される傾向なのは嘆くべきである。音楽や踊りも同様で,日本の民間のものを禁止したうえ,西洋和声法によるピアノ
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