局的に見ればいずれも主体性,能動性,積極性,自由,真理,正義といった近代西欧的な徳目を重視し,あとはそれが左右どちらの政治的表現をとるかの問題であった。それがこんにちでは,いよいよ個々人の内側,「内面」の問題,すなわち民間のひとりひとりの心を入れ替える課題となったのである。 土着の民俗心理の復権 さて,これらの問題は,個々人の心の在り方を問い進める道徳教育の問題に直結する。道徳の問題は,内容的には人間中心主義と理性主義への反省に集約されるだろう。人間性の一部を切り取って理想化したり敵視したりするのでなく,自ずから,在りのままを受けとめることである。わが国の民俗心理には,この発想がおそらく有史以前から流れているのだが,わが国の有史以来,知的選良の持ち分となった外来思想を軸に文字化された著作のなかには,明確な形で説かれることが少なかったし,近ごろでもまたそうである。民間心理学が明治以降に蒙った人間中心主義的な,ないしユダヤ=キリスト教的な歪みを正す必要があるだろう。 自然への回帰と言ってもよいが,平凡に響くかもしれない。これはもう西欧においてさえ,長きにわたって論じられてきたことである。最近でも,「自然化 naturalize」といった表現で,自然や物質と人間との接近の主張される場合は多い。しかし,問題はこのときの自然の捉え方である。自然科学に代表される自然は「心無い」もので,自らは考えることなく,ただ法則に従って運動する。これが科学的ないし客観的合理性だが,この法則は,人間の理性によって作られたか,少なくとも理性によってのみ把握されると考えられている。つまり,人間を唯一の主体,能動性と積極性,自由の源 |
に置く,ユダヤ=キリスト教起源の西洋近代的な思想から生じてきた立場なのである。近ごろ「環境倫理」が大きな問題となっているが,資源として利用する立場からの考察では,「保護」とは言いつつ,人間中心の搾取と破壊の論理の延長でしかない。 まず内容的には,西洋近代的価値観に代えて,自然と人間が「お互い様」で関わっており,「お蔭様で」生かされていること,これが「有り難い」ことなのだとの発想を見直すのがよいのではないか。そして人間はまず,なによりも自然の一部なのである。過去の優れた思想家の文献的研究の意義は否定できないものの,むしろふつうの人びとが日ごろ考え,説き,実践してきた民俗心理のな知恵に学ぶことを主に考えるのがよかろう。これが土着思想である。文字化され,複雑な論理を操る思想のみが尊いとする根拠は見出し得ない。これはまた,わが国を含む非西欧諸国がおおむね共通して持っている自然と人間の捉え方の再発見でもある。ただしいまや,これを西欧文明をも説得できる形で提示する,理論的な考察が必要な時となっている。 「お蔭様」とは,「もらう」「いただく」ことであり,積極性・能動性・主体性とは異なる思想である。だが,消極性・受動性・従属性重視の思想というわけでもない。ここには例えば「させてもらう」ないし(自発としての)「させられる」が含まれることからも分かるとおり,活動は為されつつ,しかしその主体を,自己を含む特定の一者に定位しない思想なのである。「お蔭様」は,活動の焦点となる場,ないしは差し当たり注目を引く何者かを通して見た表現だが,その前提に,能動と受動,積極と消極,主と従などの対立とは異なる軸が,はじめから設定されている。それが「お互い様」と表現される仕組みである。「互い」とは「違い」+「会い」を |
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