方を導入するにあたって,うわべだけ借りるのではなく,原理から根本的に入れ替えるほうが常に正しいとは言えないからである。よりふさわしい底の仕組みを温存しつつ,うわべだけを借りることで,二層構造が有効に働き始めるのなら,それが正しいやり方にちがいない。和魂洋才,中体西用などの標語が,これに通ずる。取りあえず祀り,馴染んで共存し,やがて馴らし,さらには護り神に変える発想は,天神信仰を代表とする,わが国の土着信仰での怨霊との付き合い方である。明治初年において,維新政府が迅速かつ柔軟に「借り物の」西欧化を実現できたのは,この伝統に則ったからに他ならない。
 したがって,うわべだけの近代化が問題なのではなく,うわべだけのはずだった借り物が,制度となるに及んで固着し,古くからの民俗に根付いた民間心理学の本音の道徳を脅かし始めたところにある。地域の風俗や祭りが,迷信や非行の温床とされ,方言は野卑な言葉,民謡や童歌は汚らしい音楽とされた。村の神々は大きな神社に合祀され,記紀神話の「由緒ある」神々に従属させられた。西洋の学問を身に付け,標準語を読み書きし,話し,ヨーロッパ民謡の輸入に他ならない文部省唱歌を歌うことが,「方言札」などの罰を伴って強制された。この競争を勝ち抜いた者が官吏として出世したのであり,さらなる出世のためには,欧米への留学も必要であった。
 これらの政策の目標は,国民が天皇のもとで,西欧の近代国民国家と同じように,一元的に団結することであった。(キリスト教は現代にいたるまで,アメリカをはじめとする「先進諸国」の事実上の国教である。)その結果は,同じことをしてきた
西欧諸国から,東京裁判で「戦争犯罪」を咎められ,「一億総懺悔」を余儀なくされたのであった。
 反省は,明治期と同じく,またしても素速く巧みであった。戦地での「玉砕」,内地での原子爆弾,無差別爆撃が,黒船に代わった。ドイツ,イタリアなどの降伏,中南米でのアメリカの覇権が,かつての阿片戦争のわが国への影響と同じ効果をもたらした。ベトナムやイラクのように抵抗することはなく,多くの国民は強い占領軍を,少なくとも表面上は喜び迎えたのであった。形だけの「民主」主義と,アメリカ風の勤勉と英雄の「倫理」が建て前として導入された。
 しかし,またしても明治期と同じ硬直化が始まった。「保守的」な人びとは,天皇制が維持されたことで,「日本の伝統」が守られたと錯覚した。これに対抗するため,「進歩的」な人びとはマルクス主義をはじめとする左翼思想に頼った。「敵の敵は味方」だと思ったのだろうが,これも結局はユダヤ=キリスト教の伝統から出た宗教・思想運動なのであった。「史的唯物論」が,絶対主義国家プロイセンの御用哲学者だったヘーゲルの「理性の狡知」を逆立ちさせたに過ぎないことは,マルクス本人が認めているくらいである。この国の憲法が明治憲法の手本だったことは,中学生でも知っている。「資本論」の最初の邦訳者だった高畠素之は,やはりキリスト教の影響を強く受けた人物で,後に右翼の国家社会主義者となった。「転向組」なのだが,本質が同じだからこそ,簡単に乗り換えられるわけである。理性の自己実現を物質の発展法則と言い換えた思想は,正義の戦いの代わりに階級闘争を煽るものであった。
 この両者が教育現場で激しく争ってきたが,大
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