だが,黒船に象徴される軍事的な圧力下で,「近代化」を急ぐしかなかった明治維新以後のわが国では,文明開化,脱亜入欧政策がもたらす十九世紀後半のヨーロッパ思想・制度の輸入が,儒教以上にその轍を踏むことには気付きにくかった。国学者たちでさえユダヤ=キリスト教の影響を受け,天御中主神を創造主に重ねたうえ,その直系としての天皇支配を説く平田篤胤の系統が力を得た。篤胤自身の全体像は,けっしてこれに尽きるものではないが,その面が強調されたのは不仕合わせなことであった。
 明治憲法下の天皇の姿は,「一神教」の神の引き写しである。「神聖にして侵すべからず」「万世一系」という規定にそれはよく現われている。明治以前にはそのような発想はなかったと言ってよい。大正から昭和初期にかけての「革新右翼」たちの思想も,ほとんどがこの路線の延長線上にある。大川周明が使いはじめ,その後一世を風靡した「日本精神」という言葉そのものが,ユダヤ=キリスト教の影響を如実に現わしている。(大川には伝記的にもキリスト教の影響を受けた事実がある。)この思想を主導したのは政府だったが,民間にも,少なくとも表面的には,喜んで迎えられていった。
 かつての軍国主義と戦争遂行の中で「物量に打ち勝つ」力として,「日本精神」が喧伝された。しかし,物質と精神を分離しかつ後者の優位と支配を主張する構えこそ,この宗教の根本教義と言えるものである。ユダヤ=キリスト教的な理性主義・人間中心主義が,右翼思想の中に採り入れられているのである。
 これらは,欧米列強の植民地政策に対抗するため,急場凌ぎに相手の武器を奪う戦略だった。つまり,江戸時代までのわが国の文明は,欧米諸国に比べ,全体としてはけっして劣った水準になかったのである。ただ,大量殺人機械の開発と中央
集権的な動員に関するかぎりは,明らかに水を空けられていた。しかし日清,日露戦争での勝利など,思いの外うまく運んだため,急場凌ぎが長期化され,強化されるに至った。欧米への防衛のはずが,いつのまにか,植民地をめぐって戦うほどにまで「仲間入りを果たし」ていた。
 言い換えれば,極めて柔軟かつ迅速だった明治初年の対応が,その後は急速に硬化症を発し,状況にそぐわない固定化を招いてしまった。借り物の原理をもって「本家」と戦ったのだから,敗戦も当然だったと言えよう。その結果をどう受けとめるかが,戦後の課題だったはずである。しかし結局は,明治から昭和の前半までと同じことが繰り返されてきたのではないか。
 建て前からすれば,明治政府の欧化政策は,それまでの価値観をまったく作り替えるものであった。けれども,そのような急激な方向転換が可能だったのは何故だろうか。すでに各方面から議論されてきた問題だが,心理的ないし宗教的な側面から言えば,是非善悪,理論的な整合性などを問わずに,力の強いものに出会えば取りあえず尊重し,祀るという構えによるのであった。このため,日本の近代化は底が浅く,内発的な動機がなく,外見だけの借り物だとの批判もある。たしかに,さきに述べたとおり,明治以降数十年のあいだに日本の民間心理学はかなり大きな影響を欧米のユダヤ=キリスト教から受けている。だが,それらはおおむね日本人の意識的な表層の留まり,無意識的な基底には,古くからの民俗心理が働き続けてきたと考えられる。この二層構造のおかげで,私たちの社会は,終戦後の悲惨な状況下にあっても,大きな道徳的混乱を免れたのではないか。
 なるほど,底の浅い借り物だとする理解には,見るべきものがある。しかし,それが必ずしも批判の根拠になるわけではない。なぜなら,新しいやり
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