までは言いきれない。なぜなら,表から行っても裏から行っても,行き着くところはそう違わないからである。牧師の息子であった成育史からしても,ユングはキリスト教の伝統的な考え方を,当然のこととして呼吸しつつ育った人物だった。近代臨床心理学は,裏からも表からも,西洋中世の無意識に影響を受けて成立したのである。 このユングでもなお,意識の基本的な役割は強調せざるをえなかった。近代に形成された意識概念は,無意識の理性の「万能の妙薬」の役割を,かなりの部分において,引きついだのである。無意識の妙薬としての働きは,錬金術にかぎられたことではない。正統派の神学においても,全能の神の奇跡は,あらゆる病まいを癒やすのだからである。近代において新たに信頼を得た意識が,それまで無意識の持っていた神の理性としての性格を奪ったのだと言える。この無意識から意識への逆転のあたりにも,臨床心理学の,西洋近代の申し子としての性格が,いかんなく発揮されている。 かつての物質と精神の対立が,名前だけで実体に欠けるのだとすれば,現代の臨床心理学の考察においても,考慮すべき論点をなすのではなかろうか。つまり,心理療法においては,体に触れてはならないと考える「体のタブー」とも言うべき態度が見られる。体を用いた行動ではなく,意識に結びつけられた言葉のみによって,問題を解決すべきだとされるのである。この主張がどれだけ理論的根拠を持ちうるのかという点は重大である。 私たちはじっさいに,心と体をともに用いて生きている。いや,用いているのではなく,「心と体で」生きているのではないか。心も体も,ふだんは区別などしていないだろう。そのなかから,ことさらに |
「心理」を取り出してくることの意味をもういちど問いなおすよう,この歴史は語っているのではないか。すなわち,臨床心理学は「心の専門家」による「無意識の科学」というよりは,意識をめぐる宗教思想なのであり,西欧のユダヤ=キリスト教的な 民間心理学を今日に再現させたものなのであ る。 こうした新しい対立関係の意識と無意識が,二十世紀の歩みの中で,個々人の心の内側に囲い込まれた。つまり,様ざまな問題が個人の心の在り方の問題へと置き換えられ,個々人が心がけを改めるよう求められる時代となったのである。個人が神の前に罪を悔い改めるという思想は,キリスト教が二千年間にわたって掲げてきた主張である。これが,今日においては心理学という学問の名において,求められるに至った。 日本の教育に見る近代的二層構造の歪み ユダヤ=キリスト教的な理性を引き継いだ意識は,人間の行動を中心に世界のすべてを照らし出し,理想的な姿に導く役割を担わされる。この宗教の名が,表立って謡られることはないが,「近代的価値観」という名目で,実質的にこの宗教思想が,明治期以来輸入され続けているのである。「人間の尊厳」といった言葉によっても語られる高く美しい理想と低く醜い俗悪との対比は,人間性の不可避の一部を切り離し,征服,支配されるべき敵と位置づけることから生ずる。このために,道徳全体にはかえって過度の緊張と憎悪が満ち,差別が産み出され,しかも正当化される。賀茂真淵や本居宣長などの国学者たち,また自然を尊ぶ安藤昌益などの思想家は,儒教批判の脈絡の中で,もう十八世紀にこのことを明確に指摘していた。 |
|
- 5 -
|
||