が,精神と物質に分かれて対立する。つまり心にも,「精神的な心」と「物質的な心」があるわけである。ユダヤ=キリスト教の正統派神学では理性は無意識の精神とされ,物質的な心である感覚的意識に対立する。
 正統派からはしばしば弾圧された裏の思想においても,例えば錬金術でも,心の中心はこの理性なのであった。しかし,錬金術では理性は物質とされるので,この点において,つまりどちらも理性を尊重しようとするのに,対立してしまうのである。そして,理性の中心部分は,どちらも無意識の心なのであった。
 物質的と精神的とは,要するに名前のつけ方の違いにすぎないと考えたほうがすっきりする。対立のための対立なら,折り合いがつかないのもあたり前である。政治的支配と結びついていた正統派と,弾圧されるがわだった異端との対立,という要素もある。棲み分けなら対立にならないが,同じ構図で優位に立とうとするから戦いになるわけである。現代の世界でも,一神教どうしが戦いをまじえているが,人間どうしの対立の本質は千年や二千年では変わらないものらしい。
 なるほど錬金術師は物質を変化させようとした。だが,正統派の神学でも,それは試みられていた。ローマカトリックの代表的な儀式である聖餐式では,「聖変化」の秘儀で,パンと葡萄酒がキリストの肉と血に変わる。それなら錬金術で,鉛が金になっても不思議ではあるまい。正統派の神学では,主なる神はマリアという人間の女に,救世主となる子供を産ませる*。いっぽう錬金術では,王と王妃の「神聖な結婚」が物質のなかに認められた。錬金術の目的は,この「神聖な結婚」
によって,物質のなかに産み落とされているキリストを解放することだと考えられていたのである。
* 神が子供をもうけるのは奇跡にはちがいないが,当時の時代背景からすれば,ありふれたことであった。ギリシア=ローマ神話にも類話があふれている。日本の神話や昔話も,この類いの話にはことかかない。さらにわが国の民俗では,つい数十年前まで,じっさいに身の回りに起ると考えられていた。柳田国男は,大学生として帰省したおりに,近所の幼なじみが「神の子」を産んでいたことに驚き,民俗学への決意を固めたと言われる。
 当事者たちに言わせれば,これらは,まったく別のことなのにちがいない。だが,じっさいのところ,キリスト教の正統を本気で信じている人以外には,これらのあいだに本質的な区別を感じ取ることは難しいであろう。ユングも,「錬金術のドラマは,キリスト教のドラマが鏡に映じた一種の鏡像である」と述べている(『結合の神秘』)。錬金術師たちも,そう考えていたようである。『立ち上がる曙(アウローラ・コンスルゲンス)』という題の,錬金術の古典がある。後世の写本には興味深いさし絵が付けられ,ユングも『心理学と錬金術』のなかで,ここから多くを引用しているが,この書物はカトリックの正統中の正統トーマース・アクィーナースの作だと,かつて言われていたのである。現在では偽作というのが定説だが,かの神学者の説だと言われても信じたくなる状況があるのは,まちがいのないところである。
 いずれにせよ理性とは,正統派神学でも錬金術でも,無意識のなかから浮かび出てくる霊妙な力なのであった。この考え方がユングに受けつがれ,彼の心理学における無意識の治癒力や自律性の思想となってゆくのである。だからユングは,中世ヨーロッパ思想の復興者とは言えようが,もっぱら埋もれていた裏の思想を復興した人物だ,と
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