この主張は,フロイトだけのものではない。無意識をあつかう近代臨床心理学のほとんどの理論に,共通して認められる前提となっているのである。しかしながらこれは,かなり大胆な,珍しい主張ではないだろうか。
 近代臨床心理学の特徴を考えようとすれば,まず意識のこの特殊な役割から出発すべきなのである。無意識の心理学として知られる近代の臨床心理学が,じつは意識をたいへん重要に考えている。意識からはけっして心の病は起こらないし,意識するやいなや症状は消えうせるのだと聞けば,意識は「万能の妙薬」かとさえ言いたくなる。さらにこの意識の重視が,臨床心理学のあつかう無意識の特殊性と,深く結びついているのである。
 「万能の妙薬」といえば,西洋では,中世の錬金術のなかで用いられたアラビア語起源の言葉「エリクシール」が,まさにこれである。百年あまりの歴史しか持たない,近代を代表するような臨床心理学の中心に,じつはこの古い伝統が再現している。臨床心理学の思想的な,また宗教的な性格付けにおいて,この点は重要である。
 無意識は古くから知られていたと,さきに述べた。けれども,「無意識」(ドイツ語でウンベヴスト,英語でアンコンシャスなど)という言葉は,さほど古くない。だいたいこの二百年くらいのあいだで,いっばんに使われはじめた表現である。どうして言葉だけが新しいのだろうか。
 それはこの言葉が,意識との対比のうえに形作られたからである。意識が「万能の妙薬」となったとき,これに対立するなにかが「無意識」という名前をあたえられた。そこではじめて「無意識」が,まさに「意識にのぼって」きたわけである。心が,人類の歴史のなかで,この時代の西洋文化をまってはじめて取りえた形態であった。
 古くから知られていた無意識は,意識に対立するようなものではなかった。それはむしろ,心のふつうの働きだったのである。古くからの心が,臨床心理学から絶大な信頼をゆだねられた意識との対比のもとで,新しいすがたを取るようになった。私はこれをあえて,臨床心理学の「発明」した無意識と呼ぷことにしたい。まず意識が「万能の妙薬」となって,それまでの無意識への従属を断ち切った。そして逆さまに無意識のほうを「非精神的な」体に結びつけ,貶め,支配しようと考えるに至った。
 臨床心理学はたしかに無意識を論じ,働きかけることを特色としている。しかしながら,無意識への働きかけは意識を通して行なわれる。だから主役は意識であり,無意識は相手役なのだと言ってよい。さらに意識と無意識とのあいだには「明と暗」,「善と悪」,「光と闇」のような対立関係が見出される。このときに意識の役割は明・善・光の側であり,無意識のほうは暗・悪・闇のほうにまわるのを常とする。もちろん,これは大ざっぱな分類で,細かく見てゆけば例外も出てくるが,無意識を扱う臨床心理学の原則はこうなのである。
 古くからの無意識が,このような損な役回りだけを引き受けたのも,この時代,すなわち近代臨床心理学がその形を表わした十九世紀末ごろが初めてなのであった。

 臨床心理学に流れ込むユダヤ=キリスト教
 の伝統

 ヨーロッパ近代の中頃に入った十八世紀においてさえ,感覚や肉体的な感情などの「心」なら,物質にも備わっているのであった。これが,科学者を含む民間心理学の主流の発想であった。対立は物質と非物質のあいだにある。これを,物質と「精神」のあいだの対立と呼んでもよい。心どうし
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