になる。さらにそれらは,独特の存在様式を持つ「心」として体,物質とは区別されるのである。
 この発想は,一般の人から科学者に至るまで,今日では広く受け容れられているが,何らかの学問的な証明を経た結果では,じつはないのである。したがつて,一種の民間心理学ということが出来るだろう。
 こうした心のとらえ方を,私はかつて他の著書の中で「心の囲い込み」と呼んでみた。「箱形人間観」と言う人もいる。だが,心の位置づけがこんなふうになつたのは,意外にもたいへん新しいことなのである。本格的に始まつたのは十九世紀も末のころで,したがつて,心についての近代的な理論が,この構えに集約されていると言える。まさに臨床心理学の誕生のころであつた。そしてこの人間観に大きな影響を受けているのが,臨床心理学のほかに,現在もなお実験心理学の基本的な枠組みをなしている行動主義と,そして二十世紀を代表する哲学思潮と言える現象学や実存主義なのである。
 これらをひとまとめにあつかうのは,これまでの思想史の常識には外れたものかもしれない。しかし,心を個人という「箱」の中に囲い込もうとする発想と,その枠組みのなかでの意識と無意識の対立を軸に考えれば,これらの思想には重要な共通点がある。つまり,臨床心理学をふくむ心理学の歴史が短く,新しい学問だというのは,名前のつけ方によるところが大きい。いま述べたような「新しい」十九世紀末から二十世紀にかけての人間観,世界観に基づいた心の学のみを,心理学と呼ぶことにしているからなのである。心理学に固有な多くの困難は,この世界観に関連している。
 近代的な意識概念と無意識との役割の
 逆転

 近代臨床心理学のいちばんの特色として「無意識の発見」を筆頭にあげるのが,しばらく前までの通説であつた。しかし,これは二つの点であやまつた説である。まず,無意識の心の存在は臨床心理学の発見によるのではなく,古くから知られていた。ユダヤ=キリスト教の教学の伝統において,神の理性の働きは,人間のような不完全な心とは,すなわち意識を中心とするような動物的な働きとはまつたく別のものであつた。人間でも,「万物の霊長」の名に値する理性の行使においては,心は肉体的な感覚から遠ざかり,意識を薄めるのであつた。すなわち,近代以前には肉体や物質を結びつけていたのは意識であつて,無意識は精神的なものだつたのである。
 もうひとつには,近代臨床心理学理論の中軸をなすのが,じつは無意識ではなく,意識なのだという点をあげなければならない。意識すると病気がなおる―西洋近代にうまれた臨床心理学は,声をそろえてこう語りかけてくる。例えば,精神分析学の創始者フロイトによれば,こうなる。
 つぎのように主張しようと思います。私どもがある症状につきあたるごとに,この患者には特定の無意識的な過程が存在しており,まさにその過程こそがこの症状の意味を内包していると推定してよい,と。しかし同時に,症状が成立するためには,この意味が意識されていないことが必要なのです。意識的過程からは症状は形成されるものではありません。無意識的過程が意識されるようになるやいなや,症状は消失せざるをえないのです。(『精神分析入門』懸田克躬訳)
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