があたり前であつたし,現在でも私たちはそれを,本音の奥では忘れていないと信じたい。(インドをはじめ,他の多くの文化にも見られる性格で ある。) ところが「セクハラ」なる犯罪が,最近になつて急にアメリカから輸入された。この背景には,色事や肉体を穢れた避けるべきものと位置づける価値観がはつきり認められる。さらに驚くべきことには,被害者の不快感の証言がこの犯罪を立証する根拠となり,色事への嫌悪と合わせると,これが原理的にはかつての魔女裁判の再現だと気付かされる。これは重大なこと である。このような思想がわが国に定着するとは考えたくないが,いまや女子中学生さえ,「セクハラ」だと言つて,教師の指導を牽制する。若者の使う「キモイ」という流行り言葉の中にも,この響きが感じられる。 道徳とは,人を含む自然との付き合い方と理解するかぎり,けつして取り澄ました理想的な徳目に留まるものではなく,身心ともに与る働きのあらゆる位相に見出されるのである。つま り,楽しみ,喜び,怒り,酔い,そして狂うことさえ含まれる。それらをどのようにこなすかの修練に他ならないことが,忘れられてしまつている。 この意味から,文部科学省が全国の小中学校生徒,総計千二百万人に配布した『心のノ一ト』の,道徳教材としての有効性は疑問である。全国一律の奇麗事を並らべ,道徳を個々人の心の中の反省とそれを表現する言葉に置き換えようとする試みは,これまでの誤りを強化することでしかない。(道徳教育の中央集権化にからむ問題がまた別に付け加わるけれども,ここ では論じるゆとりがない。) またここから,教育をすべて学校のなかに囲い |
込むのは止めるべきだとも言える。近ごろ始まつた体験学習などは,傾向としては好ましい。地域社会や家庭の本来の教育力の復活を図ることも,当然に求められる(註)。また, 異年齢集団の形成による,子供どうしの切磋琢磨,文化の伝承も重要である。 ちなみに最近,幼女の誘拐殺人事件を機に,性犯罪への取り締まりの強化が取りざたされている。しかし,「清く正しく正常な」人格を喧伝し,違反を強く排斥し,厳罰をもつて臨むこ とが問題を解決するとは思えない。むしろ逆さまに,多数者とは違つた傾向を持つ少数者を心理的に追いつめ,犯罪的な行動に走らせる危険の方が大きいと思われる。じつさいに,同性愛というだけで強い差別を受けるようなアメリカ合衆国の文化の中でも,同性愛者は減らないし,性的な接触を目的とする幼児の誘拐も後を絶たない。彼らは,自分が「異常な傾向」を 持つた価値の低い人間ではないかと悩み,追いつめられて反社会的に行動する。わが国の土着的な伝統では,同性愛も幼児愛もあたり前のことであつた。しかも,それがあつたから日本の文化が欧米に比べて遅れていたとする根拠は,何も無いのである。(私たちはみな「異常な犯罪者の子孫」だというのだろうか。) 新しそうなことを輸入しては担ぎまわるのだけが良いのではない。そういう人たちが,この百年あまり「学識ある人」とされてきた。だが,私たちを育んできた,古くても大切な「有り難い」ものをどう守るのか,どう育み返すのか,考え直すときに来ている。そのようにしてのみ,乖離や敵対が少ない姿での,言い換えれば「和をもつて尊しとなす」心理の二層構造が 維持できると考えられる。もちろん日本だけというのでなく,とくに非西欧文化圏での |
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