注目された。それ以降,小樽港をはじめとする道内主要港湾では,外材の貯木水面の確保に苦慮し始めていた。こうした状況に,再び石狩湾新港地域の開発が機運を高めた。まず,早急の打開策として,道内最大消費地である札幌近郊において,茨戸川水面を利用した貯木場および後背地の企業立地の地域開発計画案(石狩木材工業団地)が具体化した6)。工業団地は,本来,木材工業の集積を目指していたが,諸事情から各種工業に誘致を拡大し,総合的な工業団地(石狩工業団地)へと変貌した。結果として,誘致業種の拡大は,一定の企業集積に結びついた。 その過程で,本格的な外材を輸入するための港湾建設の要望が,小樽市から提案された。提案をきっかけとして,周辺自治体,産業界,政界を巻き込んだ大規模な誘致運動に発展する。とりわけ,港湾建設の位置を小樽市,石狩町どちらにするか焦点となった。結局,船舶入出の自然条件を優先して,現地域に決定する。決定にあたり,小樽市と石狩町の境界線を変更した。1972年,石狩湾新港地域開発基本計画が北海道開発庁によって策定された。並びに土地開発を行う石狩開発株式会社は,第3セクターとしての組織替えを行った。石狩開発株式会社は,先の石狩工業団地における用地の買収分譲を行う目的として設立し,その実績を評価され,大規模地域開発計画を引き継ぐことになった。また,隣接地であった先行の開発地域(石狩工業団地)は,石狩湾新港地域の一部用地として組み込まれた。その他の用地は,1971年より北海道企業局で買収をすすめていた。港湾建設は,1973年,重要港湾指定を受け,工事に着手した。1976年には,土地利用計画を策定し,2年後(1978年)用地分譲を開始した。1982年,埠頭の併用開始となり,第1船 |
が入港している。他方,港湾建設開始から約9年が経過しており,工事の遅れが土地分譲や企業立地にやや影響した。こうした影響を受け,石狩町,小樽市,北海道は,立地促進条例を制定する動きをみせた。条例は,新規立地や増設に加え,雇用増や緑化事業といった幅広い企業活動に対応する。具体的には,土地購入の融資,助成金交付によって行われる。さらに,1988年,第1回目となる土地利用計画の改訂を行い,誘致業種の拡大にも踏み切った。バブル経済期とも重なり,土地分譲や企業立地は急増した。1992年,企業活動や企業立地の一層の支援を目的に,地域内にサポートプラザを立地した。石狩開発株式会社も,これを機に札幌市内にあった本社機能を当施設に移転させている。建物内は,地域情報センター,飲食店,旅行代理店などがある。1997年,外国との定期コンテナ航路が開設し,これ以降,貨物取扱量の伸びが上昇した。 平成期に入ると,不況が長引き土地分譲は停滞ぎみとなる。1998年には,第2回目となる土地利用計画の改訂を行った。さらには,自治体,金融機関の財政支援,優遇措置も継続的に行われた。2002年,多額の超過債務を抱え,石狩開発株式会社は民事再生法申請を行い,経営破たんに追い込まれた。ただ,申請から約半年で再生計画案が認可し,翌年(2003年)には再生計画に基づき,土地開発事業を再開している(第1表)。破たん前の土地分譲は,開発地域の約6割を越え,道内地域開発計画の中では好成績であった7)。立地企業は,2000年に入って500社を越えた。企業立地の特色は,道央地域に位置する資本力の乏しい中小企業に集団化立地という形態で進出の機会を与えたことである。 |
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