しかし,やがて,地域社会から切り離して施設において特別に保護すること自体の意味が問われ始める。施設は,ホスピタリズムなどの発達の阻害や依存的な人格形成の助長,はたまた「保護―被保護」の関係のなかでパワーを形成できないまま年齢を重ねさせてしまう,さらに,集団生活の名の下に基本的人権の制約がなされる,などを必然的に生み出すとして問題視されるようになった。 そして,入所施設を閉鎖・解体し地域の住まいへ移行する動き,そしてその地域の住まいでの暮らしを支援する体制の整備は,世界の潮流となってきている。わが国においては,入所施設の閉鎖・解体に対しては,保護者の間に,あるいは,重度知的障害関係者の中などに根強い反対論がないとは言えないが,ただ,地域生活への移行の流れや,希望などに応じて地域生活に移行しうるよう選択肢を用意するなどの基盤整備を図ることに対 しては,誰しも異論を挟まないだろう。 ところで,「地域生活支援」への移行はわが国より早い時期から北欧やアメリカ・イギリスにおいて見られ,それは,そのテンポや波は異なるものの,ここ35年ほどの間に急速に進展した(注9)。これらの経緯について概観すると,まず,イギリスでは,1948年当時,国民保健サービス制度(NHS)と自治体運営の大規模施設に対する批判がなされたことを機に,施設を閉鎖し”コミュニティケア”を導入しようと考え始めている。イギリスにおけるコミュニティケアとは,中央政府が管理するNHS(国民保健サービス制度―筆者注)のもとにある病院型施設(hospital)を閉鎖する と同時に,入所者が病院から地域に移住し生活できるよう,地方自治体や民間団体などが地域のなかに各種サービスを整備することを指す(注10) という。当初その病 |
院・施設解体の動きは遅々としたものであったが,60年代後半から70年代初めにかけていくつかの実態調査がなされて劣悪な生活実態が報告され,さらに「小さくて家庭的な施設」を推奨する『精神遅滞者に対するサービスの改善」 (1971年)が出されるに及んで,そのスピードは加速されることとなった。結果,NHS長期滞在病院・NHS施設はその数を著しく減らしてきている(注11)。この間こうしたコミュニティケアを推進するためのさまざまな法律が整備されてきたことも見逃してはならない(注12)。と同時に,障害者差別を禁止する「障害者差別禁止法」(1995年)・「ヨーロッパ人権条約」(2000年)の制定も基盤となった(注13)ことも明記されるべきであろう。 次にアメリカの場合であるが,施施設ケアは,「19万4650人が施設入してケアを受 けていた」(注14)1967年をピークとして以後減少している。この現象傾向は,「1950年代に知的障害者の親たちが施設の状態に関心を向け批判し始めたこと」により「地域サービス運動」が始まり,「1960年代に新しい形態のサービスが試行的に始められ,70年代の初めにはそれが望ましいサービス提供であるとして本格的に実施されるようになった」(注15)という背景によるものである。 その後ケネディ大統領によって公的に『地域の中に分散化されたサービスが望ましいと言及した報告書』(1963年)が出され,ニク ソン大統領がこれを踏襲して施設入所者を減 らす具体的数値目標を立てたことにより,70年代には知的障害者の脱施設化が進行した。また,施設内の実態の告発や知的障害者の代理人による施設経営者に対する訴訟で「軽度の知的障害者は入所施設に収容されるべきで はない」との判決(1972年)が出されたこと によって,さらもその動きは弾みが |
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