つくことになる(注16)。そして,「市民権運動の経験が支えにな」り,「1994年までに29州において94施設が閉鎖を完了し,または,閉鎖手続き進行中であるとリポートしている」(注17)という。
 さらに,スウェーデンにおける入所施設から地域の住まいへの移行は,「1940年代から1950年代中頃にかけて,(中略)各地の入所施設で生活していた人たちがあまりにも非人間的に扱われていることに対して」の注目がなされたことに端を発し,それはさらに「1950年代後半から1960年代にかけ」ての「入所施設批判の具体的動き」へとつながり,「マスメディアが入所施設の悲惨な実態を取り上げ,親たちの組織FUBも入所施設のひどい状況を直ちに改革し,改善するよう運動を展開するようになってい」く(注18)
 行政や研究機関による施設の実態を調査や地域の住まいへの移行に関する評価・点検作業やノーマラーゼーションを明文化した援護法(1968年)が施行されたことなどが契機となって,入所施設から地域の住まいへの移行は「1970年代前半から試行的に始められたが,1980年代半ばに国の方針として示されるようになるに及んで,以後その動きは加速されていった」という(注19)。この間後にモデル施設とされる「カールスルンド」の解体が進み,祉会政策に大きな影響を与えることとなり,入所施設解体を明文化した「新援護法」 (精神発達遅滞特別援護法,1986年),入所施設解体を決定的にした「LSS」(一定の機能的な障害をもつ人々に対する援助とサービスに関する法律,1994年),さらには,「1999年 12月31日までにすべての入所施設を解体する」と明記された「特別病院・入所施設解体法」(1997年)がそれらを決定的なものとしていった。期限を過ぎても入所施設で暮
らしている人(2001年現在,113人)は存在し完全解体には至っていないが,今日ほぼ解体を終えたといってよい段階にあるとされている(注12)
 
こうしたスウェーデンにおける施設解体は,当初否定的ないし消極的であった施設職員や保護者たちの意識を変えていくことになる。解体後の生活が本人にとっても,職員や保護者にとっても満足のいくものとなっていったからである。また,解体は住まいのあり方だけでなく日中活動の集団規模などにも影響を与え,小規模化分散化をもたらしてきたし,また,祉会庁による地域の住まいへの移行も含む「個別生活計計画書」の策定とその計画に基づく具体化の指針が自治体に提示されるなどした(2006年6月)(注21)と言う。こうした成果を獲得してきた一方で課題が山積 していることも指摘しておかねばならない。「地域生活のノーマライゼーション化」のために,「職員教育」を通じて,職員と利用者の間に温存されていた「施設的構造」を変え,「本人の意思を反映でき,自己決定をし,社会活動に参加し,人間としての尊厳を尊重されるという視点からの支援の質を確保する必要がある」し,また,「本人に対する情報提供のあり方にも研究の余地があ」り,それらを行うための財源の確保も課題であるとしている(注22)
 先述のイギリスにあっては,それまでの大規模施を含めたサービスモデルは存続している,重度障害者者については取り残されているなどが,アメリカにあっては,地域生活を始めたものの孤立の中にいるなどが課題として指摘されており,課題が山積していると言えるが,国際的な流れとしては,以上のように進んできている状況にある。
 また,こうした地域生活への移行は,当初, 職員・保護者とも否定的ないし消極的である場合が
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