それでは,英語教育,理科教育,環境教育等と簿記会計教育は本質的に同じものであろうか,教育内容の異なる理科教育と簿記会計教育とでは,同質の部分もあるし,異質の部分もある。異質の部分がある以上,同じものではない。簿記の不易性,会計の流行性,そして教育の本質として内在する不易と流行,これらのことは,簿記プラス会計プラス教育が簿記会計教育と単純に理解できないことを示している。このことは,教育内容が教育にとって重要な意味を持っていることを示唆しており,教育内容が異なれば教育理念は異なるし,同じ教育方法で教育を行っても,英語と理科では同様な教育効果を期待することはできない。確かに教育として共通する部分もあるが,形式的に教育内容と教育を単純に足し算することで形作られた教育ではそれぞれの教育の特質を理解できないし,教育効果に大きな疑問が残る。教育は何を教えるかによってその教育の特質は異なってくる。
(2)簿記会計教育の定義 簿記,会計,教育が一体のものとなった簿記会計教育は,その存在意義を主張するにはどうすればよいのか。簿記会計教育とは何かを検討するにあたって,簿記と会計を一連の教育内容とする簿記会計教育は,企業活動に関する仕事内容についての実践的教育と認識する必要がある。このような認識にたてば,簿記会計教育は,従来の第1次産業,第2次産業,第3次産業という産業分野の範囲にとどまらず,全産業・全業種に横断的に貫き,営利企業はもちろん,非営利団体,利潤追求を目的としない公共事業等においても必要とされるすべての簿記会計に関する仕事内容に適応できる知識,技能,態度,倫理観を育成する教育であるといえる。これらのことを要約すれ |
ば,簿記会計教育は,あらゆる分野において必要とされる簿記会計に関する知識,技能,態度,倫理観を育成する教育である。 (3)簿記会計教育目標 1)経済社会と簿記会計 経済社会は,経済法則の貫徹する社会である。資本主義社会における一般の企業は自由競争を前提とし,利潤追求の呪縛から逃れられない。ここでひとつ注意することがある。収益−費用=利益は,時代・社会を越えて貫徹する不易の側面があるということである。しかし,利益をいかにして得るかという方法論においては,時代性、国民性のある流行の側面がある。例えば、古代奴隷制社会では,人間そのものを商品として売買していたが,現代社会では容認できない等のことである。 現代の経済社会は民主主義と結合することによって多様な選択肢が可能となる。その国の伝統、習慣,国民性等の要素が商慣習に入り込み,その国独自の経済社会システムを構築する。簿記会計教育がその国の特殊性をもち得る根拠がここにある。また,経済活動は,その国の歴史や文化を反映しているといいながらも基本的な経済法則(収益−費用=利益)は貫徹する。経済社会の理解は,同質性と異質性という二律相反するものを同時に矛盾なく受け入れることが求められる。 2)経済社会と個人 およそ経済社会において会計と無縁なことはあり得ない。個人が経済社会のなかで独立した存在となりうるのは,自らの生計を維持するための収入と支出を個人の責任で管理・運営する意思と能力を持っていることが前提である。簿記会計教育が教育の対象とする者は,将来独立した個人や企業として自らの力で行動し,収入と支出とを自己の責任において管理していく存在である。現代 |
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