近代日本における癒しの系譜と森田療法・内観療法
‐ 森田療法を中心に ‐
 
 
北 西 憲 二
 
 I. はじめに
 森田が彼の名前を冠した精神療法を作り上げたのは,大正8年(1919年),彼が45歳の時であった。森田は明治7年(1874年)の生まれであるから,明治・大正という日本の激動期を青年あるいは医師として過ごした。この時代は一言でいえば,文化間葛藤の時であ る。西欧文化という圧倒的な力を持った文化が日本に導入され,日本人の生活行動様式を根本から揺さぶった。それは単なる社会的変革のみならず,日本人の世界観にもさまざまな影響を与えた。森田療法の成り立ちとその思想的背景を明確にする作業には,この時代の日本の知識人が経験した西欧文化との関わりとその葛藤への注目が不可欠である。
 本論では,森田療法の成り立ちをこのような時代背景との照合作業から検討し,そこで浮かび上がってくる森田療法の基本的な世界観,基本的哲学を明らかにし,それらと東洋における哲学,宗教の関連を検討する。さらにそれらを近代日本における癒しの系譜との関連から検討し,その特徴を明確にすることを目的とする。

 II. 森田療法の成り立ちと西欧の精神療法
1. 西欧の精神療法と森田療法

 森田療法の具体的な成り立ちや森田の精神療法についての考えは,森田の著作,精神療法講義(1922年) 7)や近藤の論文 4)に詳しい。近藤
も指摘するように 4),森田が独自の精神療法を確立するまでには,その時代にわが国で知られていた欧米の心理的治療技術を,精力的に追試したという歴史を経験している。さてこれらの追試,あるいは欧米の精神医学に対する森川の態度は,決して欧米一辺倒ではなかった。彼が積極的に取り入れようとした治療技術あるいは理論とそれとは逆にむしろ差別化をはかろうとした埋論や治療技術がある。ここに森田自身のそして森田療法の世界観を理解する最初の鍵があろう。森田が積極的に追試し,その療法に取り人れたものとして,作業療法,Binswangerの肥胖療法(心身の保養と栄養の補給を目的とし,生活を規則正しく送らせる,生活正規法),安静療法(遮断した環境で安静させる方法で森田療法 での臥褥に近いもの)が挙げられる。これらは当時欧米で流布していた神経衰弱の理解に 基づいたものであるが,心身の領域に働きかけ,どちらかというと身体療法に近いこと, 環境の役割を重んじていることなどがその特徴である。このような発想と治療法は,元来心身一元論者である森田には受け入れやすいものであった。それはドイツ精神医学,中でもKreapelinの記述的,疾病分類的な発想に対する森田自身の態度に顕著に現れている。森田はKreapelinの未見の弟子と称していたという 4)。このようなKraepelinの考え自体は,西欧の精神療法というカテゴリーからすると身体療法に近い森
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