シーの雰囲気に浸りながら,やがてそれらが全てファッショ的な社会・文化統制に飲み込まれていく過程でもあった。そして日本近代化の観点からは,近代化が完結する時期であるが,それらは労資対決の激化,農村の疲弊,根無し草的な都市民の増加,などの行き詰まりも同時にあらわになっていく時代でもある 16)
 このような時代は当然のことながら,今までの伝統的な価値観,あるいは社会体制が大きく変化し,人々の流動性も飛躍的に増え,田舎から都会に移住し,そこで教育を受け,職業につく人たちも増えてきた。そのような時代には人々の不安が高まり,それらは心と身体への不安と結びつき,心の不安としては当時の神経衰弱(神経の衰弱,神経の力を失うこと)という用語の流行として現れてきた。
 この時代は,田邊らが指摘するように,さまざまな癒しに関する知と実践が試みられた16)。例えば,岡田虎次郎は,農業改良運動家としいう合理的な農業法の追及者から山中の修行を経て,善の影響を受けながら独自の正座法を編み出した。桜沢如一は科学による食生活の改善に正面から対抗しつつも,単に伝統的な食養法に回帰することなく,近代科学と伝統的宗教に対する新たな食の体系を提示し,現在の国内外の健康食運動の源流をなしている。野口晴哉も近代医学との齟齬を深めながら,大正期の生命主義の風潮を追い風に,人間の内側に潜む力の開花へと向い,それらは自然治癒力を癒しの原点におくホリスティック医学を先取りするような内容も含んでいた。そしてそれらのいずれもが生きている[いのち」,生の全体性,生活の場といった何らかの生のリアリティに,その知と実践の基礎をおいていた。またそれらは肚,腰,手を媒介としたり,
型を通して,多くの人たちにも体感・体得できるものだった。
 さて森田療法もこのような動きとほぼ軌を一にしていた。それらの知と実践には心身一元論,自然良能に対する信頼(自然論),そして我執の否定と無我論(狭義の自我から自然に開かれた自己への展開)そしてそれらに連なる生命論が基底に流れている。
 それらは単なる東洋的思想への回帰ではない。島薗が指摘するように,森田の考えに大きな影響を与えたのは日本の精神医学の基礎を確立した呉秀三である。呉は精神療法にも興味を持ち,ドイツの精神医学者の論説を紹介し,みずからも「精神療法二就テ」という長編の論文を書いている。しかしその基本的な考え方は西欧の精神医学における精神療法である10)。森田は自分の精神療法に師である呉の考えを一方では組み入れながら,他方では独自の世界観を発展させていった。これが近代日本における癒しの知のあり方とそのまま重なっていくのである。つまり西欧的な医学でもなく,また伝統的な東洋の仏教,哲学などの流れをくむ癒しの方法に回帰するのでもなく,それらを止揚し,第三の道,田邊らが言うオルタナティブを目指したのである。
 今までみてきたように,森田療法も近代日本が成立する過程での西欧と東洋の人間理解と苦悩の解決方法のはざまから生まれてきたものである。そしてここで挙げられた岡田,桜沢,野口らの試みと同様に,森田の思想とその実践は合理と非合理,近代と伝統,科学と宗教といった二分法的な枠組みでは捉えきれないものである。またそれらは合理,近代,科学を見据えながら,非合理,伝統,宗教への安易な回帰を拒み,もう一つの道(オルタナティブ)を目指していったといえるだろう。
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