につけ加えるならば,それは母なるものにもつながっていく。つまり森田の自然存在論的立場 1)とその底流でつながっていく。

2. 東洋的自然論と無我論
1) 老荘思想について
 では森田の自然存在論的立場とはどのようなものであろうか。その自然論についてさらに検討を加える。この自然論は,決して森田にそして日本に特有なものではない。例えば老子は,人為を捨てたとたんに,自然はその機能を発揮し始めると指摘する。つまり人が生存発展するには,必ず自然に順応し,自然に習わなければならないとする。自然には,人知の及ばない正しい秩序を内包し,それは無私,あるいは無我の状態で出現すると考える 6)。これが森田療法でいう自然に従うこと,「あるがまま」である。従って精神療法の基本に自然と無我論をおくという考えは,中国の精神科医の共感と理解を得やすかった。ここでは中国の森田療法家の多くが日本と中国における「自然観」に多くの共有する点があることを指摘している。つまり老荘思想は森田療法の哲学的背景としても極めて重要であることがわかる。この点について中国の哲学者や精神科医の意見を紹介しておこう。
 許ら(北京大哲学部)は森田療法と老子「道法自然」の思想の類似性に着目し,論じている。老子は「人間は地を摸倣し,地は天を模倣し,天は道を模倣し,道は自然を模倣する」と述べ,人が生存発展するには,必ず自然に順応し,自然に習わなければならないとする。これは森田の説くあるがまま,事実唯真とそのものである。また「なすべきことをなす」とは老子の「無為」即ち「理にそって事を起こす」ことで自然の法則に従って行為す
るとほぼ同じであるとする 5)。上海の代表的精神科医である王は,森田療法の主旨は,「順応自然」(あるがまま)である。その考えは中国の伝統的な文化や習慣と一致しており,かつ治療法が明白で,筋がはっきりしており, 実行しやすいと述べた。そして中国における森田療法は1988年から1993年の間に急速に発展し普及していると指摘した 13)
2) おのずからなるもの
 さてすでに述べてきたように森田療法の基本的な人間理解と治療論の底流には自然論がある。さらにその自然論について検討を加えることにする。
 相良亨はこの日本的なものを「おのずから」という概念で捉え直した 14)。従来自然はおもに「おのずからな」・「おのずからに」という形容詞・副詞として用いられてきたものであり,「おのずから」いう意味内容を持つものであるとする。
 そして日本における自然という意味内容は,西欧のnatureあるいは今まで論じてきた中国における自然ともやや異なった日本的特徴を持つ。西欧のnatureは,ものごとの本質あるいは本性を意味し,中国のそれは「他者からのはたらきは認められず,それ自身のもとからの変わることのない同一性が保持されている状態」あるいは万物の在りかた,全体の正しい連関,あるべき正しいあり方とされる。これはどちらかというと客観的なものごとの本質を問う理解の仕方である。
 「おのずから」とは 1) もとからもっているもの。ありのままのもの。2) もとからもっているものの(在り方の)ままに。ひとりでに。自然に。おのずと。という意味である(岩波書店『広辞苑 第四版』)
 しかし相良が指摘するように,日本では 「おのずから」としての自然を見るときには,西欧的な自
 - 5 -
<<back    next>>