然つまりものごとの本質あるいは中国でいう秩序というような意味内容が含まれていない。ただ「おのずからなる」という自発的な生成の意味を中核としていることに注目すべきであろう。それは知的な解釈でなく,それをそのまま受け取り,それになりきるようなあり方であろう。
 そして無私,無我になるとき,「おのずからなるもの」が出現し,みずからの行為が現れてくる。それがわれわれの本来の心であり,自然で固有の生を生きることである。相良は私と無私たらんとする心の対立に日本人のこころの根源的対立と理解した。これは森田の思想の矛盾そのものである。これは明治以来とくに顕著となったこころの葛藤の基本を示している。近代的自己意識が芽生えてくると「私」に執着し,容易に自己を捨てされない時代となった。
 近代日本の悩む人の基本がここに示されている。私を意識し,その欲望を意識し,それに執着する明治・大正の知識人たちの多くは鋭く自己のあり方に悩み,その解決を東洋的人間理解と実践に求めたのである。
 さて日本思想の基層と関連するこの問題を「おのずから」と「みずから」という鍵概念を駆使して迫ろうとしたのが,竹内整一である 15)。 竹内はまず高村光太郎の詩の分析から,“自然の「おのずから」を生きることにおいてこそ,「たった一つの生(いのち)」としての「みずから」を「独り立ちさせ」ることができるのである”と指摘した。そして“日本語では「おのずから」と「みずから」とは,ともに「自(か)ら」であり,そこには「おのずから」成ったことと,「みずから」為したこととが別事ではないという理解がどこかで動いている”と述べている。
 さてこの理解は森田療法においてもきわめて重
要である。それは精神における「おのずから」なるものを生きることによって,私たちが「みずから」固有の生を生きることが出来るという考え方である。たしかに生命的現象には,われわれが「みずから」主体的に生きると共に,われわれは自然という「おのずから」なるものに生かされているという重要な側面持つ。これは仏教でいう他力という考えにもつながるものである。それは結局裏腹な現象で,生きると共に,生かされるという生命的現象にわれわれの生は規定されている。ここに近代日本における癒しの底流を見出せよう。
 これらは竹内が指摘するように日本思想の基層であると共に,私たちの苦悩からの回復,救済において実感することが可能な重要な臨床的出来事でもある。では「みずから」のもつ病理性とそこにおける「おのずから」なるもののあり方などはさらに今後の検討課題 であろう。

3.生命論
 さて森田療法の持つこのような自然観への理解は当然のことながら,生命論的理解を持つものとなる。鈴木が指摘したように12),20世紀初頭には西欧での近代的社会における自然征服観や生存競争の思想,生産力至上主義に対するオルタナティブとして生命論が西欧で主張されるようになった。この哲学や思想の傾向は,日本では欧米より強い影響を与え、大きな渦となった。例えば、明治45年あたりから大正3年にかけて,文芸評論の第一線で活躍していた人々が「生」「生の欲求」「生命力」などをキーワードに一連の評論を書いているという。宗教でもなく,自然科学でもなく,「生命」を世界の原理に据える思想は,いわば人間の思考の第三の極にあたるであろう。つま
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